「うんざりして、嫌になることもある。(…)それでも、朝の輝きを、再開のあたらしい光を決して忘れない」。わたしたちの物語の尽きることのない源である「はじまり」は、誕生という、いのちの継承であり、断絶でもある。人々はなぜまたはじめるのか、どこまでやりなおすのか。はじまりをめぐる問いとは、再開の問いでもある。人々の苦悩と喜びの機微を読み解き、あらたな「はじまり」を提示する。
クレール・マラン(マラン クレール)
クレール・マラン(Claire Marin)
1974年、パリに生まれる。2003年にパリ第四大学(ソルボンヌ)で哲学の博士号を取得。「現代フランス哲学研究国際センター」のメンバーを務めるとともに、セルジー=ポントワーズのリセ、アルフレッド・カストレ校のグランゼコール準備クラスで教鞭をとる哲学者である。自らが多発性の関節炎をともなう自己免疫疾患に苦しめられ、厳しい治療生活を送ってきた患者(当事者)でもあり、その経験を起点として、「病い」と「医療」に関する哲学的な省察へと歩みを進め、精力的な著作活動を続けている。著書に、『熱のない人間──治癒せざるものの治療のために』(鈴木智之訳、法政大学出版局、2016年)『病い、内なる破局』(鈴木智之訳、法政大学出版局、2021年)、『断絶』(鈴木智之訳、法政大学出版局、2023年)、自らの経験を小説として綴った作品『私の外で──自己免疫疾患を生きる』(鈴木智之訳、ゆみる出版、2015年)などがある。
藤澤 秀平(フジサワ シュウヘイ)
藤澤 秀平(フジサワ シュウヘイ)
1962年生まれ。青山学院大学文学部フランス文学科卒業。パリ・ソルボンヌ大学にてアントワーヌ・コンパニョン教授に師事。大阪市立大学文学研究科後期博士課程修了。現在、近畿大学、大阪公立大学非常勤講師。主な論文に、« L’abîme profond entre la mère et son fils — un essai sur le drame du coucher » (大阪市立大学フランス語フランス文学会誌 Lutèce 37号、2009年)、「マルセル・プルースト『消え去ったアルベルチーヌ』をめぐって──死としての忘却と再生としての忘却」(Lutèce 41号、2013年)、など。
ほんのはじまり──明滅する光
賽を投げる
いかにしてはじめるのか?
はじまりを待ち焦がれて
儚きものの美しさ
はじまりの瞬間の新しさ
時間を断つ
多産な時間
はじまりの不安
思いがけなく
すでにはじまってしまっていること
あいだからはじまる
Let’s pretendまずは振りから
わたしに先立つ人生
わたしは生まれた
夜明けの約束
はじまりしか愛さない
数限りない「はじめて」
ふたたび、そしてあたかも
「様々なことについてはじめてであること」
やりなおす
夜を抜けて
あの日から
しがみつかないことの大切さ
新たな人生
新参者
あらたな可能性
矛盾の中で生きる──希望と明晰さ
ほんのはじまりでしかない
訳者あとがき
参考文献
賽を投げる
いかにしてはじめるのか?
はじまりを待ち焦がれて
儚きものの美しさ
はじまりの瞬間の新しさ
時間を断つ
多産な時間
はじまりの不安
思いがけなく
すでにはじまってしまっていること
あいだからはじまる
Let’s pretendまずは振りから
わたしに先立つ人生
わたしは生まれた
夜明けの約束
はじまりしか愛さない
数限りない「はじめて」
ふたたび、そしてあたかも
「様々なことについてはじめてであること」
やりなおす
夜を抜けて
あの日から
しがみつかないことの大切さ
新たな人生
新参者
あらたな可能性
矛盾の中で生きる──希望と明晰さ
ほんのはじまりでしかない
訳者あとがき
参考文献















